"弱さ"を認めて光る"強さ”---RADWIMPS『螢』に重ねる、京本大我のアイドル像

2021年5月6日に「音楽文」に掲載されたテキストです。サイトが閉鎖されてしまったので、ブログに移行しました。
誤字脱字を直しただけなので、普段のブログとはトンマナがだいぶ違います。そしてだいぶ重いです、自分でも笑ってしまうくらい重いです。何卒ご了承ください。。

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螢

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私が応援するアイドルは、カラオケで『螢』を歌うのだという。このことの重⼤さに気が付いたのは、情報を得てしばらく経ってから。何気なく歌詞を検索した時だった。

 

端正で中性的な顔⽴ちから「美しい」「綺麗」「可愛い」と称されることの多い京本⼤我は、世間の印象に反してゴリゴリのロックを愛する男だ。⼗⼋番はSUPER BEAVER の『東京流星群』、⾃⾝のソロ曲でスタンドマイクを振り回しシャウト、深夜の冠ラジオ番組SixTONESオールナイトニッポンサタデースペシャルでは、「僕が寝る前にほぼ毎⽇聴いていると⾔ってもいいくらい⼤好きな曲です」とマキシマム ザ ホルモンの『予習復讐』を流すくらいにロックに浸かっている。

 

そんな彼がある時、カラオケのプレイリストの⼀曲としてRADWIMPSの『螢』を挙げた(DAM CHANNEL公式サイトより)。ロックの知識が乏しく、この曲を知らなかった私は、ともに選曲されたMr.Childrenの『NOT FOUND』、マキシマム ザ ホルモンの『ぶっ⽣き返す‼』との並びを⾒て「邦ロック好きの彼らしいプレイリストだな」という感想に終わっていた。

 

しかし数⽇後、邦ロック好きのSixTONESファンが静かに騒ついていることを知った。どうやらアイドルを⽣業とする彼の『螢』という選曲が“ヤバイ”らしい。仕事に向かう電⾞に揺られながら、何の気なしに「RADWIMPS 螢」と検索。ヒットした詞と⾳に強い衝撃を受けた。光を求める蛍の描写は、ファンの⽬に映る京本⼤我の姿と重なった

 

虹の始まる場所を探したんだよ
余った光をもらいに⾏ったよ
光ってないとね 誰も僕を⾒ないんだよ
分かったフリでもいいから

曲の冒頭で描かれているのは、光ってこそ脚光を浴びること⾃覚し、虹のふもとへ光を探しに⾏く蛍である。それはまるで、緊張しいで「⾃分はアイドルに向いていない」と語りつつも、スポットライトを浴びるに値する芸を⾝に付け、14 年間表舞台に⽴ち続ける彼を指しているように思えた。

 

あの⽕の⿃を僕は探したんだよ
余った⽻をもらいに⾏ったよ
でもね僕には どれも⼤きすぎて
求める理由(いみ)は⼩さすぎて

蛍が光を求める背景にあるのは、「脚光を浴びたい」という想いだけ。⼤それた理由なんてない。⾃分⼀⼈では⽣きられないからこそ、誰もがそんな想いを抱いてしまうのだろう。
そしてアイドルとして⽣きる京本大我のエネルギーの⼀つにも、他⼈の存在があることを強く感じる。「ファンの存在」「求める⼈」「需要」。そんな⾔葉が雑誌やブログに度々登場するのだ。もしかしたら「応援してくれるファンのおかげで」なんて⾔葉は、芸能⼈の常套句なのかもしれない。「単なるファンの思い上がり」と⿐で笑う⼈もいるだろう。それでもあえて、今ここで「ファンがエネルギーの一つになっている」と表現するのは、彼が確かに、自らのファンに対してライバル心を抱いているからだ。

 

光って消えるただそれだけと知りながら
光る僕はきれいでしょう?
濁って⾒えた明⽇が晴れるその理由は
もう誰にも聞かないから

「ファンのみんなとはライバルでありたい。⽣きる上でのライバルね」(「⽉刊TVfan」2020 年3 ⽉号より)。京本大我は定期的にこうした想いを明かしている。緊張しい、メンタルが弱い、ネガティブ……そんな弱さを持つ⾃分が表舞台に⽴ち続けることで、ファンに「負けていられない」と感じてもらいたいのだという。
だからこそ、「⼀⽣懸命に光る姿はきれい」と⼀⽅向的に伝えるのではなく、「きれいでしょう?」と問いかける野⽥さんの歌詞に胸が震えた。「僕」を⾒て、きれいであることを知ってほしい。「僕」と聴き⼿の関係が横並びであることを感じさせる⼀⽂に、京本⼤我とファンの関係性との強いシンパシーを感じた

 

いいよ僕には名前はないけど
僕が消えるときはちゃんと泣いてよ
そのとき⼀番眩しかった星に
僕の名前つけてほしいな

1番でいう「光」とは、周りを惹きつけるための⼿段だった。脚光を浴びたい、⼀⼈では⽣きられない、そんな理由から光を求めていたはずである。しかし2番に⼊ると「光」は「⼀番眩しかった星」になり、誰かにとっての希望・憧れ的な存在へと変わる。他⼈を惹きつけるにとどまるのではなく、最後は何かを残して終わりたいという願いを表しているのではないだろうか。
京本⼤我が表舞台に⽴つ上で⼀番の武器にしている芸、それは歌である。他にも多くの魅⼒はあるが、彼の歌こそがファンを惹きつける⼤きな要因であることは間違いない。そこでふと思い出したのは、「『上⼿い』で終わらせたくない」という彼の⾔葉だった(「SODA」2020年5⽉号より)。惹きつける⼿段としては上⼿いでも⼗分だろう。しかし、彼の中には⼈の⼼に響かせる歌を届けたいという想いがある。その点に、「僕」と京本⼤我の接点を⾒た。

 

嬉しいこと 悲しいことは
いつも半分⼦ずつなの
だからそう 最期はゼロになれるの

光って消えるただそれだけ信じながら
歌う僕はここにいるよ
作ってみせるその笑顔も愛しいから
もう昨⽇を探さないでよ

⼈に与えられた平等は⽣と死だけであり、どんな⽣き⽅を選ぶのかは⼈それぞれ。数多の選択肢の中から「僕」は「歌う」ことを選び、京本⼤我もまた同様の選択をした。ファンが得られる情報、⾒える姿だけで判断しても、彼は決して順⾵満帆なアイドル⼈⽣を送ってきたとは思えない。何しろデビューの切符を掴むまでに14年もの下積み時代を過ごしてきたのだ。「歌う」という選択、つまるところアイドルになったことを後悔していないかと疑問に思うことも多々ある。

しかし彼は『螢』を、「歌う僕はここにいるよ」「もう昨日を探さないでよ」というフレーズを、歌っている。それが全てであり、過去の悲しみ・苦労を詮索し、他⼈の勝⼿な物差しではかるのは違う。2サビを通じて、そんなメッセージを野⽥さん・京本⼤我から送られているような気がした。

 

光って消えるただそれだけと知りながら
光る僕はきれいでしょう?
だからね 痛む胸に光る種を乗せて
幸せだねって⾔えるまで 光ってたいの
奪って逃げるただそれだけの命なら

1サビと全く同じ問いかけの⼀⽂。しかし⼒強い歌声だった1番とは違い、若⼲の儚さを感じる。もしかすると、ここではきれいさを伝えているのではなく、きれいであることを改めて確認しているのかもしれない。そうすることで、今が「幸せだね」と⾔える未来に繋がっていると感じられるのだろう。そして、たとえこれから胸の痛む苦しみがあろうとも、光り続ける意味や原動力になるのだろう。

京本⼤我が表舞台に⽴つ姿は、この上ないほど美しい。⾃らの弱さを認める強さを持つ彼の歌は、何よりもきれいだ。だからこそ、もし彼がこの先も「光っていたい」と願うなら、きれいであることを伝え続けていきたいと思う。ファンの⼀⼈、そしてライバルの⼀⼈として。